滝廉太郎の中折姿(明治後期)

※ 利休帽:太閤秀吉(豊臣秀吉)の宗匠千利休の被った帽子に由来し、利休帽、宗匠帽、茶人帽、和尚帽と言われる和服用の帽子で、丸い天井に腰の付いた帽子で材料は厚手の絹織物です。


明治中期に流行した中折帽

※麦稈帽(バッカンボウ):乾燥した麦の茎を材料としてつくった帽子。一部には麦稈を手編みで帽子の形に編んだものが中国の手工芸品として物産店に並んでいることがありますが、ほとんどの実用品の帽子は麦稈真田帽子です。真田は手編みでつくられ、縫製は1本糸の環縫ミシンで行います。

● 当時の帽子は利休帽

 軍帽が制定され、その軍帽に革が使用されるようになって、馬具商が帽子を手掛けることになりました。その帽子を一般の人に向けて販売したのは、唐物屋でした。唐物屋は、本来中国渡りの品物を扱う店でしたが、この頃には、海外からの洋品小物を扱う異国趣味のとてもハイカラなお店だったのです。新しいものが好きな人の興味を引き、次第に一般の人へと帽子が広がっていくことになりました。

 当時の帽子は、舶来のラシャやラッコの毛皮でつくった椀型の利休帽でした。東京では、明治3年に帽子の研究が始まったという記録があります。

 大阪では、明治4年(1871)から装束(しょうぞく)商の竹内清兵衛がオランダ人の着用していた帽子を模倣して、次のような帽子を製造したという記録が残っています。

 蓮花帽子<生地は覆輪(ふくりん)、サージ、羅紗など>
 大黒帽子<明治8年頃流行。羅紗、お召で製作する>
 神戸帽子<舶来中山帽の模倣。布を芯にして羅紗を覆ったもの>
 振掛け帽子<紙の張子に黒羅紗の粉を張り掛けたもの>
 利休帽子<羅紗と籐で製作、茶人利休の愛用品を模倣したもの>

● 珍重された中折帽子

 フエルトがまだ日本になくて、メリヤス芯に黒羅紗の粉を振り掛けて、それらしく見せかけた中山帽(ちゅうやまぼう)ですら、文明開化の象徴として、冠婚葬祭の場にはなくてはならない花形でした。また、この形式の中折(なかおれ)帽子は相当珍重されました。

 明治9年(1876)の錦絵には、中折帽子が出ています。明治11年(1878)の版画には、夏帽子ではナポレオン<ヘルメット>、パナマ、アンペラがあり、の麦稈(ばっかん)帽子が見られます。

 婦人帽子では、レース縁取りの略帽かボンネット、または羽飾り付きの麦稈帽子が被られています。しかし、これらはいずれも輸入品で、一部の階級の人が被っているに過ぎませんでした。まだまだ、一般庶民の風俗とはなっていなかったのです。

 また、米国よりメリケン帽<ツバの張ったもの>やヨーロッパより中山(ちゅうやま)の堅い帽子<山の高さ約10センチ>が入ってきています。地方では、椀型、兜型の帽子が盛んに被られました。



帽子の生産地が浅草に集中した理由

浅草は、江戸の末期まで馬具製造の職人街でした。明治の初期、帽子製造の始まりは、馬具職人の皮を鋤く(すく)技術に負うところが多かったので、馬具の職人が帽子の製造を手掛けました。馬具製造の皮鋤の道具<包丁等>が帽子製造に適していたためです。

馬具の仕事は、侍の時代が終わったことで斜陽の兆しがありましたが、それに対して、帽子の仕事は文明開化の花形産業として脚光を浴びつつありました。実際に帽子の需要が急増してきますと、馬具職人の多くが帽子の職人に転向しました。

軍帽、官帽の庇(ひさし)、バンド、スベリ等は皮製品で、馬具職人の技術が生かされました。他の地域では、大森地区に麦わらの細工職人が多数住んでいましたが、麦稈(ばっかん)帽子が流行するに及んで、やがて浅草に住む人も出てきました。さらに帽子業の将来の見通しから、浅草の職人たちは郷里から縁故者を呼び寄せるようになりました。このようにして郷里から出てきた奉公従弟たちは、技術を身に付け、年季が明けると浅草地区で職人として独立するケースが多くなりました。浅草地区が帽子製造の中心地ということになれば、原材料業者を初め、帽子箱、木型、荷造り用の木枠などをつくる関連業者も集まってきました。こうして、浅草は帽子の街として発展してきました。

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